異様にして異常な事態

2008年2月11日 (月)

時津風部屋の暴行事件

 いままで毎日新聞サイトで例の「大相撲時津風部屋の力士暴行死事件」の記事を読んでいた。ことの経過を追って日にちを遡りながら読むのがサイトで新聞を読むときの常だ。
 すると
同紙9日の見出しに「力士暴行死:執拗な暴行の詳細判明 少なくとも計8回」とあるのが目に入った。
 新聞は毎日読んでいるつもりだが、この記事は読んでいなかった。
 17歳といったら我が家の下の息子と同じ年齢だ。
 そういう、これから自分の人生をつくる少年が「少なくとも計8回にわたって兄弟子らから」暴力をふるわれ続けていたというのである。
 いま、21世紀。
 20世紀初めに人類は第1次世界大戦という恐ろしくも愚かな大事件を起こし、およそ2000年間にわたって積み上げてきた文明史の根底を揺るがした。
 その後第2次世界大戦や太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争などなど愚行を繰り返し、いまなおアフガニスタンとイラクで、あるいはケニヤやチャドやコンゴといったアフリカの国々で銃と暴力の争いごとを続けている。

 戦争とは直接関係はないけれど、この記事を読んでからぼくは、時津風部屋の暴行殺人事件については、もっと考えなければいけない出来事なのだと思うようになった。

 戦争は比類なき悪行だが、時津風部屋での出来事も行われたことの理不尽さにおいて全く同じことではなかろうかと思えてきたのだ。
 記事には「暴行に関与していたのは延べ20人を超えていたとみられる」ともあり、殺された斉藤俊さん(時太山)は、死ぬ以外に結果ない行為にさらされ続けた。
 戦争は必ず卑怯者を輩出させる。たとえば高空から市民殺戮を繰り返す爆撃機や戦闘機のパイロットなどがそういった卑怯者の典型例だが、時津風部屋の暴行に加わった面々もまた、自分は安全なところにいて17歳の少年1人に死に至る暴力を振るう卑怯者たちだ。

 いまの社会が、まるで戦争中のようにそういう卑怯者を生み出すのはどういうことかを考えていかなくてはならないなと、要するにそう思った次第なのだ。

2008年1月30日 (水)

またも目を覆う国会衆議院

 何とねぇ、顔をそむけたくなる様相だな国会衆議院の惨状
 政府提出法案を基にしながら自民・公明両党は、どういうわけかその一部を抜き出し議員立法として提出した。
 いわゆる「つなぎ法案」のことだが、これはどう見ても綿密な論議をされてはかなわないと踏んだ結果の「議員立法」だ。なにしろ議員立法にしておけば委員会質疑をしなくてもいいというのだから。

 ここで自民・公明両党の議員は「いや、きちんと論議をするための2か月延長を求めた法案なのだ」とムチャクチャをいう。
 違うだろ。
 議員立法で提出された「つなぎ法案」を2か月の時間をかけて話し合うわけではないのだ。

 そうではなく、提案し衆院通過さえしておけば、この「ガソリン1リットルあたり25円を上乗せする暫定税率の10年間維持」法案いついて2か月後の衆院再可決が見込めるからだ。
 論議を逃げ、暴力的なまでの強引なやり口をもって党略本位の法案を成立させようとしておいて、なにが議会だよ。
 恥を知れ、自民・公明の与党議員たち。

2007年7月13日 (金)

イスラマバードの殺戮事件

 参院選もだいじだが新聞を読んでもっとも気になるのはパキスタンで起きた政府によ

る市民大殺戮だ。政府の指令により軍隊や警察が自国民に銃を向け殺しまくるという

1989年の第二次天安門事件と同じことが繰り返されてしまった。

 モスクにいる人々を日本のメディアは「過激派」と呼んでいるが意味がさっぱり分から

ない。

 せめてイスラム原理主義者といえば分かりやすいのにどうして、わざわざ「過激派」な

どという分かりにくい呼称を用いるのだろう。イスラム原理主義がどういう宗派かについ

てわたしはよく知らないが、単に「過激派」と呼ぶだけでは何も伝わらないことぐらいは

分かるのだ。


 海外のメディアは、たとえば
英国BBC放送は「resistance in the Red Mosque」とい

う具合に「抵抗組織」と呼んでいる。

 ロサンジェルス・タイムズ紙は「反逆者(rebel fighters)」と書き、同時にそれがかなり

複雑な組織体であることも報じている。

 ムシャラフ大統領は彼らを100人以上も殺したが、そこには本当に殺さなければなら

ない理由なり事情なりがあったのかというと、わたしは疑問をもつ。


 周知のようにムシャラフの背後には米国政府がいてパキスタン政府をいわゆる「テロ

との戦争」に駆り立てている。今回の急襲はその延長上の出来事であるのは歴然とし

ており、市民と学生を対象とした無惨な殺戮はブッシュ政権の意向によるものと考えれ

ばコトの輪郭が見えてくる。


 米国政府はイスラム原理主義を殺せば「テロとの戦争」が終熄し世界が平和になると

いう展望をもっているのだろうか。

 もっているわけがない。

 米国政府が「テロ」と呼ぶ集団が、もしも米国のような重武装の軍事行動をとれる状

況にあったらゲリラ的な爆破計画なんぞは企てないのだ。市場などに自動車爆弾を仕

掛けるよりも最新鋭の戦闘機にミサイルを積んでワシントンやらニューヨークやらを攻

撃するほうが効果的なことは自明ではないか。

 ところが現実にはそういった軍事力は米国の専有物となっている。そして米国の国益

だけを一方的に求め、その成就に執着し、邪魔する者が現れれば排除するというわけ

で、要するに「ブッシュの我が儘」を完徹させるのである。


 しかしブッシュ政権はイラクで失敗しアフガニスタンでも失敗し、いままたパキスタンで

も市民の声を無視するという失敗を冒した。

 パキスタンで100人単位、アフガンで1000人単位、イラクでは数万人の市民を殺し

まくることでブッシュ政権は、そりゃ莫大な利権も得るのだろうが、じつはさらに大きな

怨嗟に取り巻かれることにもなるのである。

 そうして再び「テロ」が横行する。

 現に、イスラマバードの急襲殺戮戦が終わった数時間後「アルカイダのナンバー2」と

されるアイマン・ザワヒリがパキスタンのイスラム教徒に、ムシャラフ政権に対する報復

攻撃を呼びかけたではないか。

 Hours later, Ayman Zawahiri, who is said to be the No. 2 leader of Al Qaeda, called on Pakistani Muslims to wage holy war against the government of President Pervez Musharraf in retaliation for the assault on the mosque.
ロサンジェルス・タイムズ紙

2007年7月 3日 (火)

久間防衛大臣の発言から雇傭問題まで

 現職の防衛大臣が原爆投下を「しょうがないなと思っている」と述べたという。

 あきれる話だが、この件のいちばんの問題は「しょうがない」の一語にある。

 いい換えれば「しょうがない」とは何を意味するのかということで、もちろん久間章生

防衛大臣は「理由があれば原爆投下もやむを得ない」と考えていることが露呈したこと

に間違いはないが、しかし「しょうがない」のひと言だけから性急に肯定だとか否定だと

かと決めつけないほうがいい。
 

 わたし自身についていえば、わたしは、久間防衛大臣はなぜいま米軍による広島・長

崎への原爆投下を「しょうがない」などといいだすのだろうと思うばかりであった。

  
 安倍晋三総理大臣はどうかといえば、相変わらずの閣僚擁護に終始し「問題視しな

い姿勢」(毎日新聞)なのだそうだ。

 香川県丸亀市での記者会見で久間氏の発言について聞かれ「米国の考え方につい

て紹介したと承知している」と答えたというわけで、これはたしかに「問題視しない姿勢

を示した」と受け取れる。

 安倍総理は同時に「(久間氏は)惨禍の長崎について忸怩(じくじ)たるものがある、と

いう考え方も披歴された。いずれにしても核廃絶が日本の使命だ」と述べたともあり、

これまたいつもの聞くに堪えない「ふにゃふにゃ弁解」だ。

 「忸怩」を辞書で調べると、私の場合、手元にある岩波国語辞典を利用したが「深く恥

じ入るさま」をいうと書かれている。

 安倍総理の話をこれに当てはめると、安倍総理は惨禍の長崎について(久間氏は)

深く恥じ入っているとも表明しているといっていることになる。

 久間大臣も安倍総理も発言内容がピント外れも甚だしい点が共通しており、わたしな

んぞは、これが日本国の政府中枢の実際の姿だという事実にたまげてしまう。驚くべき

程度の低さ、質の悪さに茫然としてしまうのだ。


 どこがピント外れなのかというと、まず久間大臣の「しょうがない」ということばから受

け取れるのは、米軍の核兵器使用に対し「許さないとは考えていない」と明言したに等

しいということだ。

 「しょうがない」といういい方は、真にしょうがないときにこそいうべきことばであり、た

とえば急に雨が降り出したが傘はなく、ビニール傘を買うカネもないという場合などに

わたしもよく使う。「どしゃ降りだが傘がないからしょうがない、ずぶ濡れになろうじゃな

いか」というわけだ。


 しかしこんどの件は雨ではなく原爆投下だぞ、傘ではなく高熱地獄だぞ。どこが「しょ

うがない」なのかさっぱり解らないよ。日本国民は、というより広島市民、長崎市民は

「しょうがない」から原爆被災者となったということらしいが、どこかどう「しょうがない」の

だろう。

 それがきっちり説明できないのであれば、少なくとも大臣の地位にある者が軽々しく

口にしてはならないことだけは明確になる。現職大臣たる者は「しょうがない」というなら

いうで、その中身を説明しなければならないからだ。
 

 さらに、だよ。

 7月2日になって安倍総理は久間大臣を官邸に呼びつけ「誤解を与える発言は厳に

慎むように」と注意したというのだ。

 おいおい、久間大臣のバカな発言に憤りを覚えた国民は「誤解」していたというのか

い?

 ならば安倍総理は、国民が久間発言のどこをどう「誤解」したというのかについてはっ

きりさせなければいけない。が、例によって何もしないのが安倍総理の安倍総理たると

ころでね、じつにまったく舌足らずの機械的答弁に終始している。

 しかし「誤解」とはね、口先のごまかしもじつにへたくそだこの総理は。

 ともかく、防衛大臣の軽佻浮薄な認識を擁護するにあたり、よくもまぁメチャクチャな

論旨ズラしをやってくれたものだ。

 原爆投下のどこが「しょうがない」ものか。

 米国政府の暴虐無惨なやり口に「しょうがない」といい得る面はまったくない。皆無

だ。広島からバグダッドまで、米軍は一般民衆を対象に必要もない残酷な仕打ちを浴

びせ続けてきている。

 それを「しょうがない」と受け容れるには、人は生きる価値をもたないとでも考えなければとてもできない相談だ。

 久間大臣も安倍総理も、本音ではそう考えているというわけか?

 久間大臣は「発言を撤回し、お詫びする」というセリフを安倍総理に向けていったと、

2日の深夜ニュースが報じていたが、これも国民を愚弄した話だ。

 なぜなら、これでは防衛大臣の立場にある者が原爆投下を講演の題材に採り上げる

にあたり、のちに撤回し得るような認識しかなかったことになるではないか。そんなイン

チキ野郎が防衛大臣になっているのもおかしな話だが、大学で「我が国の防衛につい

て」と題された講演を行い、敗戦後62年にもなる原爆被災者の苦痛を踏みにじったあ

げく「撤回し、お詫びする」で幕引きを図る。

 これ、国民を愚弄しているとする以外のなにものでもない破廉恥行為だよ。

 始めに書いたとおり、問題は「久間防衛大臣はなぜいま原爆投下をしょうがないなど

といいだすのだろう」というところにある。

 逆にいえば、久間大臣はそういう発言が物議を醸すことを知らないわけがないのであ

る。もしも本当にそうと知らないのだったら、見通しができないということになりそれだけ

で大臣失格だ。

 久間大臣は物議を醸すと承知している重要発言をまきちらし、ただちに案の定の大

騒ぎが生じたわけだが、しかしどうしてこういったバカなことをやったのか。

 わたしは、政府が、国民の間に「原爆投下はしょうがない」という考え方を植え付けた

いと考えているからではないかと思っている。

 憲法論議が「改憲ムード」を醸し出させたように、核兵器論議も「しょうがないムード」

を生じさせ、もしかすると日本国民は、やがて原爆投下に代表される米軍の残虐行為

を受け容れるようになるかも知れない、と、そんな方向のことを安倍総理大臣あたりが

目論んでいるのではなかろうかということだ。

 日本は急速に「悪い方向」へ向かって転げ落ち始めている。

 非正規労働者が30パーセントを遙かに超えるという異常な雇傭問題もそう、少子化

問題に対する長い間の無策もそう、社保庁や厚労省のダメさかげんはいうに及ばず、

何もかもが悪い方向にしかすすんでいないのだ。

 現職閣僚の自殺という前代未聞の異様な事件さえをも呼び込んだこの安倍晋三内閣

って、いったい何なのだ?

2007年6月20日 (水)

強行採決の連続

 いやはや、国会は強行採決の嵐だな。

 安倍晋三という総理大臣は何をやりたいのかまるで分からなかったが、きょうに至る

とつくづく分かる、安倍政権のやりたいことは政治ではなく強行採決なのだ。

 そしてもうひとつ、つくづく分かることだがファシズムというのはこういうふうに形を整え

て行くのだな。

 安倍晋三という人があのギョロ目の奥で考えていたのは要するに国民の幸せを考え

ないで自らの欲望ばかりを優先させる「手だて」ばっかりだったということか。

 つぎからつぎへと強行採決がこれだけ続くと、やはり政府なり官邸なり、要するに安

倍政権は「異常である」と断じざるを得ない。

 異常であり、しかも異様。

 自民公明両党は圧倒的な議席数をもちながらどうしてじっくりとした議論をせずに強

行採決だけを繰り返すのだろうと疑問に思っていたが、どうも見ているとちゃんと議論

する自信がないのだなとしかとらえようがないぞ、これでは。